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zoom RSS オカルトとスピリチュアルの狭間で

<<   作成日時 : 2012/02/06 04:24   >>

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 以前にもブログに書いたが私はスピリチュアルという言葉が嫌いだ。この言葉は、『オーラの泉』のレギュラーである江原啓之氏の「スピリチュアル・カウンセラー」という肩書きと共に、爆発的に日本社会に浸透した。前にも、江原さんと麻原彰晃は何が違うのかという挑発的な書き方をしたが、つまりは、何らかの宗教に入信して信仰する気は無いけれども、霊的な事象や前世や占いを信じるというような人達によって都合良く使われている。私が思うに、この言葉は「ナウい」とか「フィーバーする」とか「ちょべりば」というような流行語の一つとして、いずれ淘汰されて行くであろうと思う。

 私はスピリチュアリストではない。オカルティストだ。オカルトという言葉を使うと、ある種の忌避感を持つ人々がいる事は承知しているし、その事は、私のタロット・リーダーとしての仕事を続ける上では不利に働くかも知れないが、私は嘘はつかない。オカルトという言葉はカルトに直結し、オウム真理教事件のような悪夢を連想させるかも知れないと思うが、私に言わせればオカルトという言葉よりもスピリチュアルという言葉の方が遙かに胡散臭い。霊感があるとか霊視が出来ると言っている人達に私は全く頼る気が無いし興味がない。オカルティストは意志を行使するのであって、前世や背後霊の因縁によって一喜一憂などしない。

 真の魔導師は極めて常識的な存在だ。恋愛成就の為にキャンドル・マジックや根拠の無いおまじないなどはしない。恋を叶える魔術を教えて下さいと問われれば、
「まずはペンと紙、もしくはパソコン、携帯電話などの魔術武器を用意しましょう。そこに、愛する人に対して自分の正直な気持ちという呪文をしたためて、ポストという精霊、或いはインターネットという精霊に託して愛する人に送りましょう。直接本人の前でねあなたの声と言葉で『愛の告白』という呪文を唱えれば、より効果的です。運が良ければこの魔法は成功するでしょう」
と助言する。

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 何だか知らないが、スピリチュアル・ブームのせいなんだか、何なんだか、占い師に霊視やヒーリングを求めてくる人が多くなった。そういうことをオーダーされても、
「私は霊能者ではありません。ヒーラーでもありません」
と云ってお断りする。癒しはブームであるらしいし、誠実な占い師なら、クライアントには元気になって欲しいし、前向きになって欲しいと思って助言する。そう、助言だ。予言でも断言でもない。まして預言でも啓示でもない。そんな力が本当にあるのなら、街の片隅で占い師なんかしていないで、世界宗教になり得る新宗教体系を示してパレスチナ問題もアイルランド問題も解決できるはずだし、出来ないのなら大した能力ではない。

 ヒーリングというのは「治療」という意味だろう。肉体にしろ、精神にしろ、何かを病んでいる人に治療行為を施せるのは本当ならば医師だけだ。医師の免許は国家が発行し、医師になった人はとてつもない時間やお金をかけて医師となる。精神医も臨床心理士もとてつもないハードルを越えなければその資格は取れない。一方、スピリチュアル・カウンセラーなどという国家資格はないから、誰だって勝手に名乗る事ができるし、ヒーリングという言葉は、スピリチュアルという言葉とセットになって、疑似治療行為として色々な人がありがたがっている。信じている人にとってはプラシーボ効果はあるのだろうから、やっている人も受ける人もそれで構わないが私はヒーラーだと名乗る気は無い。そんな訓練は受けていないし、短期間の修練でそんな事ができるようになるとも思えない。なのでスピリチュアルという枠組みの中で私がヒーラーという存在になる事はあり得ない。

 オカルトというのは、実は長い年月をかけて体系化された叡智に基づいている。それは整理され、確認され、実証された知識体系に基づいている。それは必ずしも霊感体質とか霊媒体質という素養を必要としない。スピリチュアルが直観の体系であるならオカルトは知の体系である。魔導師の目指すところは巫覡の道ではなく審神者の道である。しかるがゆえに、魔導師=オカルティストは極めて具体的な因果関係を冷静に分析する能力が求められる。アセンションすることよりもグランディングこそが重要となる。パスワーキングをした後や、ヘミシンクを聴いた後に現実世界に戻れない人は魔導師にはなれない。魔導師は何も盲信しない。

 スピリチュアルの世界は、概ねそのスピリチュアリスト……スピリチュアル・カウンセラーでもヒーラーでもなんでも良いが、そのスピリチュアルな能力を行使する特別な人の特別な才能に依拠しているように思える。それはそれで良いが、霊感だの霊能だのが無い(少なくとも自分には無いと私は思っている)身にとっては、守護霊様だか前世だかが見えたと云われても、そんな物は追確認のしようもない事なので、何を云われても、
「ああ、そうなんですか……はいはい」
と聞いているしかない。確かめようがない。私には見えも聞こえもしないからだ。

 対してオカルトの道というのは、霊的才能とかそう云う事とは実は無関係なのだ。
「私は誰? 世界は何処から来た?」
そうした根源的な問いに迫る為の観念論的な哲学大系の一つが実はオカルトなのであって、オカルトと総称される神秘哲学大系には多くの流派があり、それぞれに至高の存在を目指す為のアプローチが違っているという事なのだ。

 実を言えば、私は史的唯物論を学び、ポリシーとしては無政府主義に傾倒し、サルトルやカミュを愛読している実存主義者でもあり、オカルトを趣味とする唯物論者を公言していた時もある。しかしながら、実際に精神を病んでいる経験者として、フロイドの精神分析学、ユングの分析心理学、アドラー、ライヒ、モレノといった精神に切り込む学派の文言にふれていくと、唯物論か観念論かという事が哲学の最終命題であるとも思えなくなったのだ。そうした背景の一つの突破口としてのオカルトがあり魔術的カバラーがあった。

 そして、それらの観念論と、私の素地としてある唯物論をすり合わせていくと、最終的に対峙しなければならないのは『神』という概念である事がはっきりしてくる。「存在」ではない。「概念」だ。そしてこれだけははっきりしているが、スピリチュアルというムーヴメントは『神』と正対する事はできないのだ。何故ならスピリチュアルは神無き神秘体系だからだ。『神』とは何であるかと云う事と正対する為にはスピリチュアルではなく、オカルトの側に自分を置いておくしかないのである。

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