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zoom RSS 半径5メートルの世界の中心で……

<<   作成日時 : 2009/01/12 15:04   >>

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 演劇屋だけども観劇は趣味ではないと公言している私ではある訳だけれども、それなりにお芝居は観に行っている。よほど大規模な商業演劇でなければ、演劇界というのは本当に内側を向いているし、仲間同士がお互いに芝居の見せっこをしているという不健全な状態が続いている訳だが、要するに、お金持ちが生のスターさんを観に行くとか、そういう動機がない限り、大概のお芝居は知り合いがやっているからというレベル以上の観劇のモチベーションなど持ちようがないと云うのも確かなのだと思う。

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 知り合いの芝居を観に行く、と云う事がイコールで良質のお芝居を観る事になると言う事になるぐらいの交友関係というかスタンスを持てないと、多分、その演劇人のポジションは一流ではない、と云うような事にもなるだろうと思う。義理で観に行くお芝居が一流の演劇であるという状態になればそれは本物だ。ただし、そのようなポジションに移行する事は何らかの切っ掛けがなければ難しい。駆け出しの頃は友人だって駆け出しな訳だから、駆け出しのお芝居しか観られないという不幸が連鎖してしまう事も多々あるだろう。

 私はそれなりの演劇科の卒業生ではあったので、同期生の初舞台を観に行くとしても大劇団であったりする訳で、そうした意味では幸運だった。もっとも、同時期に小劇場界で旗揚げした同期とその周辺の小劇団は、その才能の可能性は別として、スキルとしてはその始まりではやはり未熟であるという事から免れ得なかった。結果、自分のやっている事の比較の対象が、同じ未熟な物同士になってしまうから、大幅なステップアップを志として持つと言う事もしにくかった訳だ。

 結局のところ、私自身にとって、広く演劇界の全体の中で勝負するという自覚が形成されたのは1998年にテアトロ新人戯曲賞を貰って、演劇マスコミから他の一流どころと比較されるという機会を貰ってからだろう。それまでは、一部の知り合いからの繋がりでの小劇場界の片隅の小さなお池の中で、小さなライバル達を相手にしていたに過ぎない。それまでは長く、「評論家を呼ばなければ意味がない」と言われながらも、評論家に足を運ばせる、その切っ掛けすら掴めないでいた。良くも悪くも賞とは差別の始まりであるが、そういう看板を持っていなければ、文字通り作品を世に問うと云う事は出来ないのだ。

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 劇作家協会の仕事をいくつかするようになってから出来た交友関係という物も、ある意味で、義理で観るお芝居を一流の物にすると云うきっかけではあった。私は現在の協会に対してはかなり批判的であるが、今はその事を書く場ではない。逆に、協会での仕事の中心が教育事業であったという事から、若い劇作家の劇団を見る機会も増えたし、協会とは別の処で、俳優を教えるようになった事で、そうした駆け出しの俳優達の芝居を観る機会もまた増えた。

 そうした意味では、義理の観劇をしていても、ピンからキリまでを見る事になる。そうした観劇状況の中で思う事は、明らかに演劇は衰退しているという事だ。いや、演劇だけではないのかもしれない。表現の現場が全体にわたって衰退し、活力を失っている。

 教え子達の芝居を観ていて、数日から数週間後にはその中身をすっかり忘れているという事も珍しくない。題材にも表現のスキルにも全く印象に残る事がないし学ぶところがない。こういう事をしてみたいと思う事が殆ど無い。その営為に関心が持てないのだ。

 全体として、もの凄く世界が小さいし、志も低い。極々、私的な人間関係の中での葛藤ばかり描いているから、見ていて心の中に残る事がない。ああ、こういう人もいるのだろうなとは思うのだけれども、それがどうしたという範囲を超える物ではない。彼らは自分を変えたいとは思っているのだろうが、自分を取り巻く世界が見えていない。その世界の大きさは半径五メートルしかないのだ。世界の中心で愛を叫ぼうにも、その半径が五メートルでは誰の心にも響かない。

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 劇作家の仕事は世界観を示す事だと私は思っている。だから根源的な哲学を持っていない舞台に私は関心を持たない。演劇はその全体として、俳優や観客のセンチメントを昇華しなければならない責務も負っているが、センチメントの海に溺れてしまった作劇は世界を変える力を持たない。そも、演劇は世界を変えられるのかと言ったら変えられはしないと応えるしかないが、問いを発する為には世界を変える意気込みと戦う覚悟は必要だ。

 世界を見つめる視座の問題は劇作家が責任を持たねばならない。そこにセンチメントをどのように購うかは演出家が責任を持たねばならない。俳優はその世界に生きるだけだからだ。俳優の生きる世界を半径五メートル以内に狭めてしまうか否かは努めて劇作家と演出家の視座の持ちようにかかっている。

 だが、その小さな世界を描いた演劇と接する時に、観客が実は小さな世界を欲しているという事が劇場の全体を包むアトモスフェアから分かってしまう事がある。彼らは半径五メートルの世界の中心で愛を叫ぶ俳優を欲しているのであって、イスラエルがガザを空爆している事や、派遣村の失業者達が明日の寝食の補償すらないという事も忘れていたいのであろうと分かってしまう。そして半径五メートルの世界の中のセンチメントに溺れたがっている。それは絶望的な事だ。

 小さな世界の優しい演劇の需要は今後も衰える事はないであろう。それは世界を変える力も演劇を変える力も持たないし、ムーブメントとして演劇ジャーナリズムが取り上げる事もない。にもかかわらず、演劇の大部分をセンチメントの濁流が押し流していく事も確かだし、それは世界を矮小化してしまうことだ。それについては、作り手の側と観客の側が共犯関係にあって、世界の闇を押し隠してしまう事だ。世界を直視しない事は、結果として個の内面をも直視しないという事であるが、その事を彼らに自覚しろと言っても無理であろう。

 現在の演劇はその指標を見失っている。いつまで半径五メートルの世界の中心で愛を叫び続ければいいのであろうか? それにおそらく終わりはない。その先に一歩を踏み出す事は誰にも強制できないのだ。センチメントの濁流の中で窒息死しない為には、たとえ絶望に満ちていようと世界の本質を見せるしかない。それはまたシジフォスの神話である。

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