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zoom RSS 劇作家、演出家、作・演出家……それぞれの視座

<<   作成日時 : 2008/10/22 17:52   >>

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 私の肩書きというのは、大概の人には「劇作家・野中友博」として認識されているはずである。次には多分、「演劇実験室∴紅王国・主宰・野中友博」という事であろう。どちらも間違ってはいない。つまり、劇作家であると同時に座長であると云う事だ。ただ、私は自分の事を単なる劇作家だとも座長だとも、また演出家だとも思っていなくて、作・演出家であるところの座長であると思っている。で、多くの演劇集団の場合、劇作家か演出家が座長を務めている事が多いが゜、商業演劇などでは看板俳優が座長となっていることも珍しくない。だから、座長という立場が劇作家や演出家でなければならないという法則はない。例えば、『松平健座長公演』などと銘打って『暴れん坊将軍』を公演するなら、何が何でもマツケンさんを魅力的に格好良く魅せると云う事に、作家も演出家もベクトルを統一せねばならんという訳である。まあ、私はそんなモンには興味を持たないし、そういうお仕事が回ってくるとも思えない。なので、いわゆるスターさんの座長公演の「座長」については、今回は考えない。

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 日本では、劇作家と演出家を兼ねる作・演出家が劇団や制作体を率いているというパターンが圧倒的に多い。そしてそれは小劇場においてこそ顕著である。所謂、大手の劇団になると、劇作家と演出家は共に「文芸部」、或いは「文芸演出部」というようなセクションに所属する事になるが、実は、単独に取り出した場合、劇作家の仕事と演出家の仕事というのは、全く相反するベクトルを持っている。例えば、演劇という営為の中で、「劇作」、つまり戯曲、台本を書くという作業は、唯一、個人が単独で遂行できる仕事である。一人芝居の俳優は、一見、一人だけで演劇を遂行できるかのように見えるが、観客がいない事にはそれは演劇としては成立しない。一人芝居の俳優が作家も演出家も無い状態で稽古していてもそれは稽古に過ぎないので演劇ではない。劇作家の場合、戯曲はイコール演劇ではないが、戯曲は戯曲単独でも一つの作品として成立してしまう。これが実は厄介だったりするが、この件はまた後に述べる。そして、劇作家が一人で戯曲という表現形式によって創作や表現が出来るのに対して、演出家は独りぼっちでは何にも出来ない。演出を成立させる為には少なくとも最低でも一人の俳優との共同作業によらなければ演出家は演出たり得ない。

 劇作家は即ち言葉を取り扱う表現者である。戯曲に書かれる言の葉は、科白とト書き、共に言語である。ロゴスである。劇作家の駆使できる道具は唯一言葉のみである。勿論、ある種の台本の中には、舞台装置図や俳優のミザンセーヌなどを図示している物もあるが、基本的には戯曲は言葉だけで書かれている。そして、劇作家にとっては、何を言葉として、何を言葉に書かずに行間に込めるのか、という事にしか自分のパフォーマンスは無い。

 そして、演出家は自らの言葉をダイレクトに観客や読者に対して問えない仕事である。演出家は何よりも、その戯曲、台本を如何なるベクトルで読み込むかという事に最大の資質を問われる物だ。そして演出家の台本の読み込み方を、一座の俳優やスタッフに対して超課題としての統一的な読み方をまとめられるかが演出家の仕事であり、演出家のロゴスは俳優やスタッフのそれぞれの肉体や仕事の中に込められ、観客にダイレクトに届く事は無い。劇作家が言葉を取り扱う表現者であるなら、演出家は俳優やスタッフという「人間」を取り扱う表現者である。つまり演出家に求められる資質とは、読解力と、その読解した内容を如何に的確に俳優やスタッフに伝えられるかという表現力とあわせて、統率力や人望などと言う物も問われる事になる。

 例えば、劇作家の立場からすれば、演出に対して、正しく戯曲を読み込める人である事を望む事になる。「本を読めない演出家」などと言う者が果たして実際にいて、そんな仕事が成立するのかと言えば、現実にはそんな演出家は掃いて捨てるほどいる。また、演出家には誤読をする権利がある。実のところ、私はそのように思うし、単に戯曲の意味を正確に読み取り、正確に再現する事だけが演出家の仕事なのだとすれば、演出家は単なる戯曲に隷属する代理人でしか無くなってしまう。なので、ダイナミックな演出家というのは、その演出家独特の誤読の方法のような物があり、戯曲を如何に意図的に誤解するかが演出家のパフォーマンスであったりして、その事こそが自分の仕事だと思って憚らない演出家だって沢山いるのである。劇作家は、その演出家が戯曲に隷属するのか、戯曲を更に拡大させるのか、それとも誤解によってベクトルを変容させようとするのか、その見極めが出来ていないと、大変不幸な結果を招く事も少なくない。

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 そして私は、基本的に自分の書いた戯曲を自分以外の演出家に任せる事をしない。戯曲を書くという段階から自分自身で演出するという事を想定して戯曲を執筆している。また、執筆段階で出演者が決まっているというパターンも少なくはない。劇集団を率いる作・演出を兼任した座長にとってそれは珍しい事ではない。私のような作・演出家にとって、戯曲の執筆段階で、既に、実際の舞台のビジュアルや音楽、その他のアトモスフェアはかなり具体的な物である。劇作と演出を兼任する人間にとって、演出は戯曲への隷属ではないし、劇作は演出の為の素材提供でもない。つまり戯曲の最初の一文字を書く(或いはタイピングする)という段階から、俳優やスタッフとの共同作業を経て、幕が開くまでは、分離不可能なトータルなパフォーマンスである。作・演出家は戯曲に隷属する事をしないから、稽古の過程で戯曲の内容を書き換えていっても、それは劇作家に対する傲慢ともならない。作・演出家は俳優やスタッフとの共同作業庭よるフィードバックを自らの戯曲に与える。作・演出家は、自身の戯曲の完成地点を初日の幕が開いた時点、若しくは千秋楽の幕が下りた時点にまで設定する。ある意味で、作・演出家のパフォーマンスは、単なる劇作家とも、演出家とも異なる物である。それは作・演出家という特殊な演劇上の役割であって、また、職種であると私は考えている。

 作・演出家である私は、基本的に他人の書いた戯曲を如何に読み込んで具体化するかというような、戯曲に隷属する演出の仕事には殆ど興味がない。だから、私の演劇的キャリアの中で、他者の戯曲を素材として演出したという経験は極めて少ない。また、私が演出家として他者の戯曲を扱うとしたら、それはやはり、戯曲のロゴスを素材として自分自身のパフォーマンスを遂行しようとする演出家となるであろう。つまり、私は劇作家にとっては甚だ迷惑な演出家以外にはなれないだろうと思っている。だから演出依頼などと言うものを滅多に引き受けたりはしないのだ。私と組んだ劇作家は不幸になる事が目に見えている。

 また、同時に、はっきり云って、私は戯曲に隷属するような演出家に興味はない。また、読解力のない演出家と組む事など論外である。先に、私が他者の戯曲を扱った演出家としての仕事は極めて少ないと述べたが、私が単なるテキストの提供者として、作・演出家ではなくて劇作家としての仕事にとどまったという事の方が若干は多い。ただ、そのいずれもが、大概は無惨な結果に終わっている。だから私は自ら言の葉を創造できない演出家という者を信用していない。言葉を紡げない演出家が言の葉の裏の裏を読み込めるなどと言う期待なんか抱いていない。ましてや、自分の不得手な言の葉を書き換えてしまう演出家など論外である。そんな奴らに「人間」を取り扱う仕事である演出家の資格はないと私は断言する。

 演出家であろうと、作・演出家であろうと、その最大の功罪は人間を取り扱うという大それた事を引き受けるというその事にある。その行為によって、演出家は劇作家や俳優やその他のスタッフ、或いは観客まで含めて、その精神を病ませてしまう事もある。人間を取り扱う事、その事の罪深さを自覚し、尚かつ人間を取り扱う事に躊躇しない演出家だけが良い演出家であると私は思う。その罪の自覚に比べれば、読解力や表現力など二の次で良いと私は思う。劇作家が取り扱うのは所詮言葉である。戯曲の物語の中で、何人の人間を殺し、どん底の不幸に落とそうとも、実際に死ぬ人間や不幸になる人間が出てくる訳ではない。演出という作業は、その不幸や死を具体的にする事だ。しかも、俳優という他者を使ってその不幸を実現するという事なのだ。その罪の大きさは、核ミサイルの発射命令を出したり、死刑判決を出す事に等しく業の深い行いである。私は私のミューズであり戦友でもある俳優や女優達にそれを要求し続けてきたのである。

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 演出家が劇作家の構築した世界観を破壊してしまう事、劇作家と演出家を兼ねた作・演出家が、 己の業に多くの俳優やスタッフを引き込み、巻き添えにする事……そのどちらが罪深いのかは分からない。ただ、業の深い本を書き続けるしかない私としては、その宿業のような物を、他人である演出家に押しつけるのは罪深いと思っている。だから、私の紡ぎ出す言の葉については、私が責任を持ち、地獄に堕ちるしかないであろうと思っている。どうせ地獄堕ちが決まっているなら、あかの他人である演出家に世界を破壊されるよりは、自分が何もかも背負い込んだ方が良い……そしてその事は、何にも代え難い至上の快楽という物でもある。

 そして私は、劇作という行為が、演劇そのものではないという事を知り尽くしている。演出をしない多くの劇作家は、多分、この事を勘違いしている。そして、演出も俳優も自分の戯曲に隷属するのが当然だと思っており、それが良い演劇だと勘違いしている。他人を自分の言の葉に隷属させたいなら、演出という演劇行為の中の最大の悪行を、自分自身の手で遂行すべきであろう。それぐらいの覚悟がなければ、自分の書いた戯曲を舞台に乗せてはいけないのだ。そして、その業を共に分かち合ってくれる俳優やスタッフを得てこそ初めて劇作家の名に値するという物なのだ。戯曲を書き上げた人間が劇作家なのではない。書いた戯曲が上演されて初めて劇作家である。その事だけは勘違いして欲しくない物だ。そして私は、これからも私の紡ぐ言の葉と心中してくれと言う罪深い営為、作・演出という営為を続けるしかないのである。

 今回の写真は、一枚目は演劇実験室∴紅王国の『美神の鏡』の舞台から、二枚目と三枚目は我が演劇のミューズであり続けてくれた鰍沢ゆきと円谷奈々子。撮影は一枚目のみ菊池友成氏、二枚のポートレートは私の撮影。

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