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zoom RSS 誰がために生きる?

<<   作成日時 : 2008/10/22 01:27   >>

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 私の友人の一人が、いつだったか、「余生は人(他人)の為に生きようと思っている」と言った。五十を前にして、「余生」と言ってしまう事、また他人の為に生きるのだと断言してしまうとはとてつもない事だと思った。私は多分、私の為だけに生きている。妻の為にも親の為にも生きていないし、多くの人が子供の為に生きているとは思うのだが、幸か不幸か未だに子供はいない。そして、アフガンやイラクの可哀想な子供達の為や、日本の可能性ある子供達の為に生きる事も多分出来ない。

 で、私の為に生きる事しか考えていない私は利己主義なのかどうか、そんな事は分からない。ただ、私は演劇実験室∴紅王国という演劇企画集団を率いる主宰者であり劇作家であり演出家であるから、そこで遂行している演劇という営為にしてからが、誰の為でもなく、自分の為にやっていると言う事になると思う。勿論、同士というか戦友というような仲間はいると言えばいる。だけれども、私の立場は、彼らと民主的に作品を共有するという立場ではない。創作に於ける私の発言権はその他の全員をあわせたよりも絶大に大きな物になる。

 はっきり云って、劇団の座長だの演出家だのという立場の人間が俳優に対して行う出演交渉という物も、つまりは「あんたには俺のコマになって貰う」という事なのだから、その罪深い事は地獄堕ちが確定的であるほどの物なのだ。だから私は他人の為に余生を生きると言った友人の事が、とても凄いなと思えてしまう。ただ、凄いというのは必ずしも肯定的な意味ではない。否定的な意味合いでも、これはもの凄くもの凄い事なのだ。

 もしも誰かに、「私はこれから貴方の為だけに生きて行く」などと云われてしまった事を考えてみよ。それは単純に嬉しい事だろうか? 要するに、私の為にのみ生きると言ったその人の人生は、丸ごと私の責任だという事になるではないか? そんな事が私に引き受けられるだろうか? どう考えても無理だ。そんな責任はとても負えない。

 実際、誰かの為に生きる、と決める事は、ある種、自分の人生に対する責任放棄だとは言えないか、と私は考えてしまうのである。そして、例えば、Aさんの為に生きる、と決めてしまえば、Aさんの為にならBさんの不利益になる事だってAさんの為には出来てしまうという訳だ。そしてBさんの被る不利益には、Aさんの為なのだからその責任はAさんにある事になって、Aさんの為に生きると言った当人には帰せられない……これは理不尽ではないか? Bさんの立場に立ってみれば分かる事だ。「そんな事はされては困る」と言ったって、帰ってくるのは「だってAさんの為じゃないか」という言葉しかない。これでは手も足も出ない。

 私も「演劇」なるものが、その当事者達の天国的な共有を可能にするのではないかと夢見ていた事もある。だけれども、そんな物は嘘っぱちだ。結局、誰かが恨まれようと憎まれようと、何かの中心になって独裁権を発揮しなければならない。その覚悟を持ってして、その演劇は初めて「美」という価値を獲得できるのだ。で、私としては、その覚悟を常に新たにしていかないと、何一つ手に出来ないと分かってしまった以上、私は何もかも私の為にやっているのだという事で責任をとるしかないし、それ以外の生き方は選択できない。

 と云う訳で、私は人の為になんかは生きない。生きられない。そんな傲慢な事も責任放棄も出来ない。だから戦う。それだけだ。けれども、みんなに利己的になれとか、他人に迷惑をかけても善いんだという事を奨励している訳じゃないんだよ。これでも私は優しい人として通っているはずだからね。だけどその分、怒った時は半端じゃないよ。徹底的にやっつけるよ。迂闊に触らないでくれよな、火傷すっから。

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 今日の写真は我が家の屋上から見た朝焼け。本文とはなんの関係もありません。

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