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zoom RSS 【殺人者達の履歴書−1】 『我が名はレギオン』公開創作メモ−3

<<   作成日時 : 2007/11/17 21:57   >>

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 次回作、『我が名はレギオン』の公開創作メモ第三回。殺人者達の履歴書だが、長くなりそうなので、永山則夫、宮ア勤、の二人をまずは公開する。

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【殺人者達の履歴書−1】

《ケース1−永山則夫》

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 永山則夫は、1949年6月27日、北海道網走市呼人番外地に、8人兄弟の7番目の子(四男)として生まれた。博打に明け暮れる父親の放蕩生活によって、家庭は崩壊状態であった。1954年(当時5歳)に、母親が則夫を含む4人兄弟を網走の家に残し、青森県板柳町の実家に逃げ帰ってしまう。残された則夫を含む4人兄弟は屑拾いなど極貧生活に耐えてギリギリの生計を立てたものの、1955年に、4人を見かねた近隣住民による福祉事務所への通報をきっかけに、板柳の母親の元に引き取られた。
 1965年3月、板柳から東京に集団就職する。上京後は職を転々とし、どこも長続きしなかった。

 米軍宿舎から盗んだピストルで、1968年10月から1969年4月にかけて、東京、京都、函館、名古屋で4人を射殺し、いわゆる「連続ピストル射殺事件」(広域重要指定108号事件)を引き起こす。

1969年4月(当時19歳10ヶ月)に東京で逮捕された。1979年に東京地方裁判所で死刑判決。1981年に東京高等裁判所で無期懲役に一旦は減刑されるが、1990年に最高裁判所で、「家庭環境の劣悪さは確かに同情に値するが、彼の兄弟たちは凶悪犯罪を犯していない。」として、死刑判決が確定する。
 獄中で、読み書きも困難な状態から独学で執筆活動を開始し、1971年に手記『無知の涙』、『人民をわすれたカナリアたち』を発表した。この印税は4人の被害者遺族へ支払われ、そのことが1981年の高等裁判所判決において情状の一つとして考慮され、無期懲役への減刑につながった。獄中から手記や短歌を自ら発表する死刑囚は多い。しかし、自らの罪を認める一方で、自己の行動を客観的にふりかえるという手法で創作活動を行い、文壇において一定の地位を獲得するまでに至った永山は、死刑囚としては珍しい存在といえる。

 1997年8月1日、東京拘置所において永山の死刑が執行された。享年48歳。永山の死刑執行については、執行同年6月28日に逮捕された神戸連続児童殺傷事件の犯人が少年(当時14歳11ヶ月)であったことが、少なからず影響したとの見方も根強い。少年法による少年犯罪の加害者保護に対する世論の反発が高まる中、未成年で犯罪を起こし死刑囚となった永山を処刑する事で、その反発を和らげようとしたのではないか、とマスコミは取り上げた。

……以上、Wikipediaよりの引用に若干加筆。



 永山の事件当時、私は六歳になったばかりの子供で、小学校に入学前、幼稚園に通っていた頃なので、殆ど事件そのものに対する記憶はない。むしろ、私の記憶にある最初の連続殺人犯と云えば、むしろ大久保清である。だから、永山の事件について、或いは永山則夫という人物について何らかの情報を調べたり考えたりしたのは、殆ど私の成人後であると云って良い。
 永山被告は逮捕時年齢こそ19歳だったが、生まれてからの劣悪な生活環境、幼少時に親に捨てられた過去、学校にほとんど通っていないことなどを考えると、被告の精神年齢は18歳未満の未熟なものであった。故に、18歳未満は死刑を適用しないという少年法の精神に則るべきである、と弁護側は訴えた。
 ただ、永山則夫に対する判決が、一端は無期懲役にまで減刑されながら、最終的に死刑が確定したことで、いわゆる、その後の重大事件に対する「永山基準」という物が判例として残ることになった。その「永山基準」とは、

1.犯罪の性質
2.犯行の動機
3.犯行態様、特に殺害方法の執拗性、残虐性
4.結果の重大性、特に殺害された被害者の数
5.遺族の被害感情
6.社会的影響
7.犯人の年齢
8.前科
9.犯行後の情状

 である。
 この「永山基準」から考えると、光市母子殺害事件の被告である元少年に対しても、最高裁からの差し戻し審が行われているように、死刑が適用される可能性は極めて高いだろう。
 永山は殆ど読み書きの出来ない状態から、獄中で独学で勉強を続けて文学者となったが、彼は特にマルクス…レーニン主義に傾倒し、自分の犯行は貧困と無知から引き起こされた物であるという思想を持つに至ったと云われている。そして死刑制度そのものも憲法違反の残虐刑であるとして、ある意味、公判においても、獄中においても「闘争」を続けたのだと考えることが出来る。そして死刑の執行に際しても、事前から「抵抗する」と明言していたとおり、かなりの抵抗をしたという情報もある。これは日本の死刑執行の密室性から真実であるかどうかは分からない。

 永山が連続殺人の凶器として使用したのは、米軍官舎から盗んだ拳銃であった。銃の発砲経験を持つ、元自衛官の知人と話したところでは、拳銃による殺人というのは、おそらく、殆ど手応えを感じず、殺人の実感が乏しい物ではないかとの事だった。刃物を使った刺殺や、ロープや素手による絞殺などに比べて、自分の身体感覚として感じるのは引き金を引く指だけだからだという事だ。永山が拳銃を用いたことは、1965年にあった少年ライフル魔事件に影響されたせいだとも云われているが、真実は分からない。
 いずれにしろ、永山は親に捨てられたと云うだけでなく、兄たちからも度重なる暴行と虐待を受け続けていた。特に次兄による暴力は「教育」の名の下で行われていたらしい。親からではないが、永山は兄から「躾という名の虐待」を受け続けていたのである。

 多くの人々が指摘するとおり、神戸で酒鬼薔薇事件が起こった直後に永山の死刑が執行されたことは、司法による少年事件への見せしめだと私も思う。あの当時、永山則夫は酒鬼薔薇聖斗に殺されたのだと私は思った。
 一般に、永山は獄中結婚した妻やその他の支援者の働きかけ、自らの勉学と考察によって、悔悟、贖罪、謝罪の境地に至って更生したと云われている。それが本当なのかどうかは、今となっては分からない。そして、たとえ更生したとしても、四人の無辜の人々を殺害した罪は死によって償われねばならないとするのが現在の日本の死刑制度である。事実、彼が更生という境地に達していたのだとしたら、酒鬼薔薇によって殺された彼の刑死には様々なことを思わずにはいられない。


《ケース2−宮ア勤》

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 宮ア勤は、1962年8月21日、東京都青梅市内の公立総合病院で吸引分娩によって未熟児として生まれた。生まれたときの身長は48cm、体重は2165g。曽祖父が村会議員、祖父が町会議員を勤めるなど、宮ア家は地元の名士であった。自宅の敷地は約1000平方メートルと広かった。両親の仲はそれほど良くなかった。父親は自殺前、妻が結婚式に向かう途中で「タクシーの中で泣き通していた」(宮アの精神鑑定に関係する問診での証言)と述べている。
 母親は母乳が出ないため人工栄養で育てられた。母親が働いていたため、子守として雇われた精神発達遅滞のある青年がミルクを与えていた。ミルクをよく嘔吐し、中耳炎などを繰り返し、体重の増加は滞っていた。処女歩行は16ヶ月であった。手の障害も4歳になったときに発見された。先天性橈骨尺骨癒着症という極めて稀な病気であり、手が自由に開かず手のひらが上を向かない奇形である。手術も困難と医師に言われ手術を断念している。
 1967年4月、宮アはバスで1時間かかる隣町の私立秋川幼稚園に入学。だが、手の奇形のために宮アはひったくるようにして物を取るしかなくなっており、また「お手手つないで」「ぎんぎんぎらぎら」などの遊戯はまともに出来なかった。
 宮アは五日市町(現:あきる野市)の五日市町立五日市小学校に入学したが、なかなか友達が出来なかった。当時は「怪獣博士」とも呼ばれていた。小学校時代は両親共にPTA役員であった。小学校高学年時代、近所の主婦が自宅裏の川原で何十匹ものトンボの羽を宮アが引きちぎっていたところを目撃されている。本人によれば、いじめも経験した。本人によると小学生時代は「殴られたり蹴られたり、何人も何人も上に乗っかってきて、息ができなくて死にそうになった」り、「急に後ろから髪の毛を掴んできた」りされており、大人もグルであったようだったという。簡易鑑定では9歳ごろから自慰を行っていたという。だが、宮ア自身の著書である、『夢のなか…』などでは、自慰や射精を経験したことはないと述べている。
 町立五日市中学校に進学。中学校時代はいじめの程度は軽くなったがパンチが子供のころと比べ重くなり「その分おっかなさは増した」といい、プロレスと称する暴力的ないじめもあったという。中学校の時期は父親だけがPTAの役員を務めており、この時期から宮アの母親にはパラノイアに近い夫に対する嫉妬が目立つようになる。学力は中学校くらいまでは中の上レベルであり、約230人中20番前後であった。
 1978年4月、明治大学付属中野高等学校に進学。この学校を選んだのは家族には英語の先生になるためと説明したが、中学時代の友人には女のいない学校だからと述べている。この高校は自宅から片道2時間もかかる場所で疲労がかさみ、集中力もどんどん落ちていった。クラスになじめないため、周囲に馬鹿にされることも多く、「お前を相手にするのは、幼稚園の女の子ぐらいだよ」と言われているところを同級生に目撃されている。それまで怪獣関係の本やミニチュアを収集していたが、この頃からプロレス本、テニス本、ロリコン本、アイドル本やアニメ、アイドルのビデオを集めだした。
 学校での成績が落ちたため、東京工芸大学短期大学部へ進学する。この時期、同じクラスの女の子と映画を見に行ったりアダルト雑誌やビデオを見ている。1982年1月、子守であった住み込み人が親族と名乗るものにより連れて行かれた。理由は、宮アにカエルを食べる事や昆虫虐待を教えたのは彼だと両親が誤解したためであった。短大2年に、女子高生を待ち合わせていた井の頭公園でデートをすっぽかされ振られた際、その場所で小学3年の女児と仲良く過ごす。1982年末頃より、風邪薬の大量服用が始まった。短大は1983年3月に卒業する。
 1983年4月、東京都小平市の印刷会社に入社。1984年夏、帰宅する最中電車の車中から偶然に行水する女児の姿を見つけ、五日市線の熊川駅で引き返し、裸や性器の写真を撮った。1986年3月28日、仕事が出来ず熱心でないということで解雇。その後は家業の手伝いをしていた。1986年4月から11月にかけ渋る息子を父親が強行する形で4回見合いしたが、ほとんど相手と話をしないため、全て相手側から断られた。事件直前の1988年5月16日、最愛の祖父を失った。祖父死亡の頃から約4000本ビデオを集めている(ビデオクラブに宮アが送った文章によれば1987年12月時点でビデオは約2000本)。風邪薬も食べるように飲むようになった。動物虐待も祖父の死亡時からエスカレートした。

 1988年8月22日、4歳の女児、今野真理ちゃんが誘拐・殺害される。殺害後しばらくたち死後硬直で固くなった遺体に猥褻行為をするビデオを作成している。動機について簡易鑑定の問診記録では、鑑定人にどうして写真だけでは済まなくなったかを聞かれた際は「やはり二次元ではなくて、三次元の方がいい」と答えたが、第一次鑑定では「よく分かんない」、最後の被告人質問では「急に子供の頃が懐かしくなった」と、証言が曖昧であった。
 1988年10月3日、7歳の小学1年生の女児、吉澤正美ちゃんが誘拐・殺害される。こちらはすぐさま猥褻行為をしたが、この時点ではまだわずかに息があった模様で足がピクピク動いていたという宮アの証言がある。動機について供述調書では「何ともいえぬスリルがあった」、第一次鑑定では「よく覚えていない」「一番印象が無い」と述べ、やはり不明瞭。
 1988年12月9日、4歳の女児、難波絵梨香ちゃんが誘拐・殺害される。絵梨香ちゃんは失禁した。焦ったのか犯人は被害者を山林に投げ捨てた。12月15日、絵梨香ちゃんの全裸死体発見。12月20日、難波さん宅に葉書が届く。この遺体の発見後、テレビで被害者の父親が「死んでいても見つかってよかった」と発言するのを見た犯人が他の被害者の遺体も送ることを計画するが、吉澤正美ちゃんの遺体を発見できなかった。
 1989年2月6日、今野真理ちゃん宅に紙片と骨片などの入った段ボール箱が置かれる。2月10日には「今田勇子」名で真理ちゃん事件の犯行声明が朝日新聞東京本社に郵送される。11日には同内容の犯行声明が今野さん宅に届く。3月11日、「今田勇子」名での告白文が朝日新聞東京本社と今野さん宅に届く。
 1989年6月6日、5歳の女児、野本綾子ちゃんが誘拐・殺害される。綾子ちゃんの指をもぎ、醤油をかけて焼いて食べた。また、ビニール袋に溜まった血を飲んだ。11日綾子ちゃんのバラバラ殺人遺体発見。
 1989年7月23日、東京都八王子市で猥褻事件中に取り押さえられ、現行犯逮捕。8月9日野本綾子ちゃんの殺害を自供。10日綾子ちゃんの頭部発見。当日マスコミが嗅ぎ付ける。13日今野真理ちゃん、難波絵梨香ちゃんの誘拐殺人を自供。1989年9月2日、検察が起訴に踏み切る。9月5日、吉澤正美ちゃんの殺害を自供。6日、五日市町で正美ちゃんの遺骨発見。13日今野真理ちゃんの遺骨発見。幼女を殺すたび自宅に藁人形を置いて部屋を暗くし頭に鉢巻きをし蝋燭を数本付け黒っぽい服を身に付け手を上げ下げし、祖父復活の儀式を執り行ったという。

 宮アの逮捕された時、後藤正夫法相(当時)は「死刑くらいでは納まらない残酷な出来事だ」と発言した。1989年8月24日、東京地検の総務部診断室で簡易精神鑑定を受ける。精神分裂病の可能性は否定できないが、現時点では人格障害とされ、これを受け起訴に踏み切った。初公判では「全体的に、醒めない夢を見て起こったというか、夢を見ていたというか……」と罪状認否で訴えた。

 1990年12月20日より五人の精神科医により第1回鑑定が468日間をかけ実施される。この鑑定では動物虐待等の異常行動に目が向けられ、祖父の骨を食べた事などは供述が曖昧なため事実ではないとみなされた。1992年3月31日精神鑑定書が提出され、人格障害とされた。実際、性的倒錯は人格障害の患者によく見られる症状である。祖父の骨を食べた件については弁護側は墓石などが動かされた事を証拠としたが、検察側はそれだけでは確証ではないと反論した。
 1992年12月18日より、弁護側の依頼により3人の鑑定医により678日をかけた再鑑定が始まる。1994年11月30日に鑑定書が提出される。第2回鑑定では1人は精神分裂病(統合失調症)、2人が解離性同一性障害の鑑定を出した。
 精神分裂病は、視覚性気づき亢進(視野内の注意を向けていないものに不随意的に目に入ってくる事)などから疑われた。精神分裂鑑定では祖父の幻視・幻聴の発現は、第一次鑑定中で、犯行当時あったわけではないとみなされた。二重身に関しては、一つの人格中の落差とする。また、自閉や感情鈍磨など精神分裂病の重要要素が見られた。さらに、第一次鑑定で行われたロールシャッハテストでも精神分裂病に多く見られる反応を示していた。精神分裂鑑定では、その症状の発現時期を高校卒業もしくは印刷会社就職の頃とした。
 解離性同一性障害は第1回鑑定で鑑定拒否文を書いた際、いつもの宮アに見られないような急に攻撃的な態度をとり、さらにその事を覚えていなかった事、「今田勇子」の告白文や犯行声明と、宮アが深川署長に書いた上申書の筆跡がかなり異なっていた事などから疑われた。また、どこで入手したか分からないビデオテープがあったという証言もあった。二重身体験も、別の人格状態の際の健忘や人格コントロールが完全でない場合があるため、さほど問題とはならない。ただし、解離体験は事件の責任を免れる要素には一切ならないとも明記され、祖父の死による反応性精神疾患(意味合いとしてはPTSDに近い)であるとして責任能力があるかどうかが問われた。このような言い方をしなくてはならなかった理由は、自閉や感情鈍磨などは多重人格だけでは説明が付かないため、PTSDの麻痺や過覚醒などと関連付け説明しようとしたためである。

 1997年4月14日、東京地裁で死刑判決。判決時の被告は時折周囲をしらけた表情で眺めるくらいで、いつものように机上に広げたノートに何かを書き続けていた。法廷を出る際は、薄笑いを浮かべていた。責任能力に関しては、逮捕時の彼にそのような多重人格や精神分裂病を疑わせるような異常な反応は見受けられず、逮捕による拘禁反応とみなした場合に最もうまく説明できる事を理由に第2回鑑定は採用されず、責任能力は完全に保たれていたとされた。即日控訴。
 2001年6月28日、東京高裁で死刑判決。2001年7月10日、上告。2004年には奈良小1女児殺害事件が起こるが、犯人が「第二の宮ア勤」の発言を行ったことに対し「精神鑑定も受けずに、『第二の宮ア勤』は名乗らせません」(『創』2006年1月号)と宮アの名を使った事に対し痛烈に批判した。2006年1月17日、最高裁が弁護側の上告を棄却。弁護側は判決訂正を訴える。
 2006年2月2日、死刑が確定。同日以降歴代の法務大臣は死刑執行のサインをしていないため死刑確定囚として東京拘置所に収監中。

 事件の奇異さから、さまざまな憶測が飛び交い、また宮ア自身が要領を得ない供述を繰り返していることから、裁判でも動機の完全な特定には到っていない。
 おたく研究家大塚英志は、幼少の孤独が彼の精神を幼児期のまま停滞させたため、子供のような性格と性的嗜好を有していたと指摘する。事実、宮アは強制わいせつに相当する行為(体を触る等)はしたが強姦はしておらず、幼児退行をきたしたある種のペドフィリアの行動に合致する。これは、フロイトの射精欲求はある時期に接触欲求から派生するため、子供の精神を持った者は性的結合をする意思がない…という説に由来する。また殺人も、かっとなった子供が暴力をふるうのと同じ行動を、大人が行ったため死に到ったのだと指摘した。
 鑑定に当たった医師たちによると、彼は本来的な小児性愛者(ペドフィリア)ではなく、あくまで代替的に幼女を狙ったと証言されている。「成人をあきらめて幼女を代替物としたようで、小児性愛や死体性愛などの傾向は見られません」(第1次精神鑑定鑑定医 保崎秀夫 法廷証言)および「幼児を対象としているが、本質的な性倒錯は認められず…幼児を対象としたことは代替である」(簡易精神鑑定)。

……以上、Wikipediaよりの引用に加筆。



 宮ア勤は私の同世代人だ。まるっきり同い年で誕生日も五十日足らずしか違わない。警察よりも前にマスコミによって公開された宮アの私室は、おびただしい量のビデオやコミックに埋め尽くされていた。彼の事件を境に、「オタク」という言葉が一般の人にも市民権を得ることになるが、我らオタク第一世代は、宮アの犯罪を、まさに我々世代の犯罪と受け止めたのだ。

 永山則夫が貧困と無知という、それまでの犯罪の温床となる環境で育った事に比べ、宮ア勤の家は地方の名士であり、宮ア自身の異常なまでの収集癖をまかなうだけの経済的な環境にも恵まれていた。犯行に使われた自動車、ラングレーも親から買い与えられた物だった。つまり、宮アは、ロバート・K・レスラーがプロファイリングの対象とした「怪物」達と同じく、一見幸せな家庭に育った普通の若者であり、不良でも非行少年でもなかった。だが、米国の「怪物」達と同じく、宮アの家庭も決して幸福な家庭では無かったようである。

 両親の夫婦仲の悪さは、当然、宮アの心に心的外傷として残っただろう。また母親は子育てなどをめぐって、姑とも悶着が絶えなかったと云われている。宮アは暴力的な虐待はされていなかったかも知れないが、ある意味では親の育児放棄のような物の犠牲になっていたと言える。彼を実質的に育てた、知的障害を持つお守り役の青年と、どのような関係が築かれていたのかは今となっては分からない。

 私自身は、共働きの親から生まれ、母方の祖父母に育てられ、物質的に甘やかされた環境に育ってきて、ある種のオタク的な収集癖を持っていると云うことなどで、宮ア勤に自分を重ねると云うこともしばしばあった。多分、そうした人間は全国に数十万単位で居ただろうと思われる。何が彼をして宮ア勤たらしめ、何故に我々は宮アのようにならなかったかを、我々同世代のオタク達は考えざるを得なかった。と同時に、何十万人もいるオタクの中で、宮アのような事をしでかしたのは宮ア一人しかいないという事で、彼を自分とは別種の「怪物」なのだと意識の外に追いやることも可能ではあった。

 ただ、私の宮ア勤に対して持っていたイメージは、彼自身の著作とされている『夢のなか 連続幼女殺害事件被告の告白』と、『夢のなか、いまも 連続幼女殺害事件元被告の告白』(共に宮ア勤・著、創出版)を読んだことでかなり変わった。

 第一に、宮アはオタクの代表者のように観られていたが、彼の収集したビデオやコミックには、あまりに脈絡が無く、手当たり次第に録れる物を録り、特定のジャンルに深く固執するという傾向がない。オタクにはある種の拘りがあり、その拘りに徹底する物だ。宮アにはそれがない。単に趣味の範囲が広いという訳でも無さそうである。収集していた作品、一つ一つに対する読み取りは表面的で浅い。多分、同ジャンルの徹底したオタクとの会話には、彼はついてこられなかったのではないかと私は思う。

 第二に、前掲書に書かれた宮ア自身の言葉が、あまりにも稚拙で支離滅裂であった事に驚いた。とても「今田勇子」名義で犯行声明や告白文を書いた人間とは思えなかったのだ。これを読んで、それまで自分の同時代人、そしてオタクという括りの中にある宮アと私の共通感覚は全て吹っ飛んだと云って良い。

 宮ア自身、今田勇子名義の手紙を書いた覚えはないと云う旨の発言を、公判で証言もしているし著作の中でも書いている。今田勇子が宮アと別人格であると考えると、彼に対する「多重人格」の鑑定結果を一部裏付けることにもなる。犯行声明だけでなく、諸々の犯行や遺体に対する損壊行為などに際して、ネズミ人間が現れ、もう一人の自分が犯行に及ぶのを、自分は後ろからただ見ていたというような証言に対して、世間は一様に罪を軽くするための詐病であると解釈した。だが、私には宮アはいかれているとしか思えなかった。著作の中で、彼は何の根拠もなく無罪を確信していると言い続け、それどころか自分の裁判に対しても全く関心がになさそうに思える。彼が拘りを見せているのは、拘置所で出される食事のメニューや放送されるラジオの中身などばかりで、同じような内容を同じような言葉で幾度となく繰り返す……私にはそれが詐病であるとはどうしても思えなかった。

 宮ア勤に対する精神鑑定の結果は、引用にも触れたし、前項【殺人者精神病とプロファイリング】でも触れたので重複する詳述はしないが、とにかく、裁判所は統合失調症や多重人格の鑑定を退け、人格障害の鑑定を採用して、責任能力はあったと断定して死刑判決を下した。その判決が確定した今、宮ア勤とは何者だったのかという真実は、永久に分からないで終わることになってしまった。
 私は別に、宮アは精神を病んでいるから、無罪にしたり減刑してやった方が良いと云いたい訳ではない。ロバート・K・レスラーも述べているように、宮ア勤は、生涯自由の身にしてはならないと私は思う。だが、宮アの真の犯行動機と、彼の中にある怪物の魂を、我々は知らずに終わってしまう。確定死刑囚となった宮アと、我々、塀の外の一般人がコンタクト出来る手段は限りなくゼロに近い。宮ア勤の事件をこのまま終わらせて良いのかどうか、凶悪犯を死刑にして良しとするだけで社会は安全でいられるのか、宮ア裁判は諸々の疑問を社会に投げかけたのだと言える。

 宮ア勤の妄想や幻覚……それが真実であるかどうかは、最早、永遠の謎に近いが、特に私が関心を持つのは、ネズミ人間やもう一人の自分ではない。一つは、殺害した幼女達の夢を見ると、被害者だった彼女たちが、「お爺ちゃんのために良いことをしてくれてありがとう」と、お礼を言うという、宮アが繰り返し観る夢についてだ。お爺ちゃんというのは宮アの祖父の事だ。そしてもう一つは、祖父に対しての執着に比べて、自分の両親は本当の両親ではなく、真の両親は別にいるという妄想だ。彼は両親のことを「父の人」、「母の人」などと呼び、公判中に父親が自殺した事を聞いた時には「胸がスーッとした」と語っている。宮アが両親とどのような親子関係を築いていたのか、それは事件の背景の重要な要素だが、父親の自殺はそれについての真実も閉ざしてしまったのだと言える。

 宮アの妄想や幻覚についての証言や記述が、全て詐病であるとは思えないと書いた。その真偽を知る事も最早出来ない。そして真の動機すら、最早我々には知りようもないのである。

(続く)

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