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zoom RSS 『我が名はレギオン』公開創作メモ 【序 何故殺せるのか?】

<<   作成日時 : 2007/11/06 22:31   >>

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 執筆準備中の新作戯曲『我が名はレギオン』の創作メモ(私はTRACTATE−『秘法典』と名付けているが)を部分的にも公開していくことにした。

 だいたい、どのあたりでどのようなことを考えていたかについての記録にもなる。ネタバラシをしたい訳ではないし、パクられたらパクられたまでの話。個人的には、

「パクって何が悪い。元よりも面白ければ文句はあるまい」

と考えているので、パクられたからと云って恨み言は言わない。そも、私の題材を私と同じ台詞の色気を出してかけるというならやってみろ、と思っているので怖くはない。

 基本的に、殺人と殺人者についての考察となっていく。ジャンルは演劇と共に犯罪のジャンルにも属させておく。

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【序 なぜ殺せるのか?】

 劇作や演技の指導者の仕事をするようになってから、私はいつも最初に「人はなぜ人を殺してはいけないのか?」と問う事にしている。より正確に言えば、「貴方は『人はなぜ人を殺してはいけないのか?』と問われたら何と答えますか?」という問いである。

 「人はなぜ人を殺してはいけないのか?」、その事はおそらく、人類が人命という物についてのイデアを持ち、考えるロゴスを獲得した時から、数千年以上にわたって考え続けられてきたことだと思われる。だが、おそらく、人は、人を殺してはいけない理由を、万人のに納得する形で明文化できてはいないのだと思う。

 「人命は尊い」、「命はかけがえのない物だ」、それらの言葉は、おそらく犯罪としての殺人を抑止する完全な切り札とはならない。もしも、人類社会が、命はかけがえのない尊い物だと認識しているなら、なぜ人は戦争を起こして何十万、何百万もの人命を奪うと云うことに及ぶのだろう? また、死刑制度によって人命を奪うのはなぜなのだろう? この二つは、かけがえのない尊い命を、場合によっては奪っても良いのだ、という例外と、奪っても良い、尊くない命もあるのだという反証を可能にしてしまう。だとしたら、「命を奪っても良い場合」と「奪っても良い尊くない命」を、誰が何の根拠で区別するのだろうか?

 「なぜ殺してはいけないか?」についての堂々巡りの考察は、故・池田晶子の『14歳からの哲学』の「善悪」の項目に詳しいので、あまり突っ込んでは書かないけれども、「人を殺してはいけない理由」を明文化するのは不可能だというのが、もう随分前からの私の結論だった。殺人の禁止は、多分、ロジックではなくて、ある種のタブーとして人類初期の共同体の暗黙の了解として形成された物だと思う。このタブーを共有できなかった共同体、或いは群れは、他の群れや共同体との生存競争に敗れて絶滅したであろうと思う。

 つまり、人は人同士で殺し合うことをやめるという事をしなければ、恒に絶滅の危機と隣り合わせている。その最大の危機こそが戦争であり、核兵器の開発競争に明け暮れていた冷戦構造の中では、核戦争という人と人の殺しあいによる人類の絶滅という物が、かなりリアルな問題として多くの人に意識されていた。だから、私は人類社会に残る合法的殺人としての戦争と死刑制度を止揚しない限り、人類の共食いによる絶滅の危機は常に潜在的にあるだろうと考える。

 ただ、その事もまた、殺人の禁止の最終的な理由にはなり得ない。なぜなら、「人類が絶滅してはいけない理由とは何か?」と云う問いを発すれば、これにもまた明確で確定的な理由など与えられないからだ。酒鬼薔薇聖斗以後、数々の少年少女による殺人事件が起こったが、彼らのような若い世代は、心の深層で、人類が絶滅してはならない決定的な理由など無いと云うことを知っていて、その事の最も先鋭化された部分が殺人事件として発動しているのではないかと私は考えた。

 なので、殺人の禁止、もしくは抑止、超克については、「人は人を殺さない」という事を意志し続けることしかない、と私は考えた。その延長として、戦争、死刑制度という合法的殺人を否定するという事を徹底しなければ、人類社会から人殺しを無くすことは不可能だろう……それが私の十数年来の基本的なスタンスだった。

 ただ、改めて「殺人」という事を題材として取り上げようと考えてから、私は別のことを考え始めた。「どうして人を殺してはいけないのか?」ではなく、逆に、「なぜ人は人を殺せるのか?」という事が、大いなる謎として横たわったのである。

 私は如何なる動機を持ったら人を殺すと云うことを実行できるだろうか?

 まず、戦争と死刑制度については除外しておく。少なくとも、私は現在、合法的殺人として国家に人殺しを強制される兵士や刑務官(死刑執行人)ではない。国家に殺人を強制されると云うことは不幸なことだが、幸いにも私はそのような立場にはないし、おそらく今後もそのような立場に立つ可能性は極めて少ない。だから、私が遂行するかも知れない殺人とは、犯罪として法に触れることになるであろう殺人の事である。

 では、作田明の『現代殺人論』による殺人の分類に従って考えてみよう。作田の分類による四つの類型は、「利欲殺人」、「隠蔽殺人」、「葛藤殺人」、「性欲殺人(快楽殺人)」である。これにもう一つ、「確信殺人」という分類を加えて五つのケースについて考えてみようと思う。

 「利欲殺人」……金品欲しさで私は人を殺そうとするだろうか? 闇サイト殺人事件のように、数万円の金のために強盗殺人などに及ぶだろうか? 多分、これはあり得ない。強殺には死刑が適用されることもあるし、良くても無期懲役や、かなり長い懲役を科せられる。たかが数万円で人生を棒に振るなんて馬鹿げている。とても割に合わない。
 では、誰かに保険金をかけて大金を手にするという周到な殺人計画を私は練るだろうか? どうもピンと来ない。これだって殺人の罪に対するリスクは大きすぎる。違法な手段で金銭を得るにしても、大規模な詐欺をやるなり、新興宗教の教祖様か何かになって馬鹿から金を巻き上げた方が良い。それより何より、そんな事に知力を費やすよりも、創作に知力を注ぐ方がずっと面白い。金を得るために頭を使うのなら、別の事業を考える方がずっと面白い。私はつまらないことには頭を使いたくない。だから多分、物質的な利益のために殺人のリスクを背負い込むことは多分しない。

 「隠蔽殺人」……何かの犯罪の発覚を恐れて目撃者を殺す、そういうことを私はするだろうか? 衝動的に殺ってしまうという事が絶対にないとは言えないが、それにはまず、露見してはまずい事、窃盗や強制猥褻のような犯罪をするかどうかと云う前提がある。これもあまり考えられない。私はどうせ犯罪を犯すなら、知能犯と云われるような犯罪者になりたいと考えるだろうと思う。どうせ悪い事をするなら、絶対に発覚しないように周到な計画を練るだろう。そしてどうせ知力を使うなら、犯罪に使うよりは創作に使いたいというのが私であるから、これも可能性は極めて低い。
 私が隠蔽殺人に及ぶとしたら、それこそ前後不覚になるまで酩酊したり、不法な薬物などでラリってちょっとした事をやり、その後、その勢いで衝動的に殺ってしまうという事だろう。ドラッグによる一時的な心神耗弱のような物だ。だけれども、酔って馬鹿な事をしでかしたという事は、もう四半世紀以上にわたる飲酒の経験から学習しているから、ある程度は用心深くなっている。やはりこれも可能性が低い。

 「葛藤殺人」……家族や友人、ごく近しい人達との愛憎の末の殺人……やってしまうとしたら、これが一番可能性が高いかも知れない。実際に、国内で起こる殺人事件の殆どは顔見知りの間で起こる葛藤殺人である。確かに、人は感情の動物で、「あんな奴、居なくなってしまえば良いのに……」と思う事は誰にだって良くある話……ただ、ここでこそ、私はハタと考え込んでしまったのだ。殺しを実行する程の怒りや憎しみとは何だろう、と。多分、殺したくなる程憎める相手というのは、家族や恋人や友人だろう。学校や職場でのイジメに耐えかねて復讐するという事もあるかも知れない。だが、そういう場合でも、殺人を選択するよりも自殺を選択する可能性の方が遙かに高い。
 私が誰かを殺したい程憎んだとする。と云うか、「こんな奴、死んでしまえ」と思った事は一度や二度ではない。しかし、では、殺人という形で実行に移そうと考えたかと云うとそんな事は一度もない。なので考えてみた。
 殺すとしたらどういう方法をとるだろうか? 殺した事を隠蔽しようとするだろうか、それとも自首をしたり、逮捕されるのに任せるだろうか? 逮捕起訴されたとして、裁判では量刑に対して争おうとするだろうか、それとも早く死刑にして下さいと云うだろうか? 遺族に対して申し訳ないと思うだろうか、思わないだろうか? 謝罪をするだろうか、しないだろうか?
 それらを考えて、具体的にどうやって殺すか、という事を考えるだけで、もう思考は中断してしまった。刃物を使うのか、毒を使うのか、首を絞めるのか、ハンマーのような鈍器で殴り殺すのか、どこかにおびき出して高所から突き落とすのか……? この具体的な方法を考えただけで殺意なんか失せてしまった。殺したい程憎める相手というのは、やっぱり同時に感じている情も深い。
 情の問題も勿論あるのだろうが、やはり、自分が自分で人を殺すという場面を考えるだけで、ある種のストッパーが働く。やはり、人には、「人を殺してはいけない」という根源的な禁忌が、超自我と本能の両方に存在しているのではないかと思う。人殺しに及ぶというのは、その禁忌、その歯止めが、衝動的に、或いは長い時間をかけて壊れてしまうという事に他ならない。
 なぜ壊れてしまうのか? それを考えるのが今作『我が名はレギオン』の主題でもある訳なのだ。

 「性欲(快楽)殺人」……つまり、人殺しそのものを楽しみ、その事によって快感を感じるという性癖、或いは病による殺人……これは一見、自分とは全く縁遠いところにあるように思える。だけれども、私は人殺しを楽しまないと断言できるだろうか? そういう要素は全くないと断言は出来ない。だが、快楽殺人について考察するのは、ロバート・K・レスラーがプロファイリングで扱っている連続殺人者や、日本で云えば宮ア勤や酒鬼薔薇聖斗といった類例を研究する方が有効なので、「私が快楽殺人を犯すとしたら?」という可能性について考えるのは控えておく。要素は皆無ではないだろうが、前出の「葛藤殺人」以上に、こちらの方がストッパーが働くだろう。
 ただ、殺人を楽しむ、少なくともフィクションの中の殺人を楽しんでいるという要素は、私自身を振り返るまでもなく、世の中のメディアには殺人が溢れかえり、それが娯楽として消費されているという事は疑いようのない事実なのだ。そして、エロスはタナトスと、リビドーはデストルドーと密接に関わる表裏一体の物だ。快楽殺人について、死を楽しむという人間の性癖、或いは業については、別項でもっと時間をかけて考察しようと思う。

 「確信殺人」……作田明の分類の中にはこの項目はない。だが、ゼーリッヒによる犯罪者の分類の中には「確信犯罪者」という項目がある。例えば、失敗すれば犯罪者として処断されてしまうが、成功すれば建国の英雄ともなりうるという革命家などがこれにあたり、イエス・キリストなども確信犯罪者の一例として考える事が出来るという。
 例えば、法的手段によらず、独裁者を打倒しようとして暗殺という手段に訴えれば、それは確信的殺人であると言える。目的の正当性を考えずに、手段のみについて考えれば、これはテロリズムである。9.11同時多発テロ、オウム真理教による地下鉄サリン事件、これらのテロも全て確信犯的な殺人である。遂行者にとって、自分達の殺人行為は正義に基づいており、崇高な使命である。
 テロリストの確信的殺人が犯罪と認定されるのはそれがその時点の政権にとって非合法な暴力だからである。例えば、北朝鮮で独裁の打倒のために金正日を暗殺しようとして捕縛されれば、国家反逆罪として死刑が適用されるであろう。だが、暗殺の成功後に金政権が打倒され、民主主義政府が樹立されれば彼は英雄となる。また、戦争状態の戦争当時国間での大規模殺戮は戦闘行為として合法化される。国家が主体となって合法的に人命を奪うという意味では死刑制度も合法的殺人である。
 私に関していえば、このような使命感による確信殺人に及ぶ可能性は、葛藤殺人を犯す可能性の百万分の一以下である。私は国家の合法的殺人である「戦争」と「死刑制度」に対しては明確な反対の意思表明をしているし、それが国家によらない私的な使命感による暴力にも今や否定的である。若い頃は暴力革命の可能性を社会変革の手段として考えていた事もあるが、現在の日本国内の状況からすれば、暴力革命による体制変革は現実的ではない。(ただし、他国の軍事独裁に対する革命的な抵抗に対しては必ずしも否定はしない)少なくとも、私は確信殺人によって誰かを処断したり体制を変革しようとはしないだろうと思う。第一、怖い。
 あえて、この「確信殺人」について考えようと思ったのには理由がある。国家による確信殺人である死刑制度を支持する人々、その中で、特定の犯罪者に対する「死刑にせよ」と声高に叫ぶ世論に、ある種の恐怖感を感じている事に由来する。
 作田明によれば、殺意とはすなわち特定他者に対する排除の意志であるという。であるとすれば、殺人犯が対象であるとはいえ、そこに排除の意志を発動させるという事は、深いところで殺意と連動しているという事ではないのかという疑念を拭いがたいからである。そして、その使命感や正義感の中には、死を楽しむ、殺しを楽しむという快楽殺人との繋がりが皆無ではない事に戦慄するからである。

 以上、五つの類型に従って、果たして私は殺人を実行しうるか、殺せるかを考えてみたが、実際に殺人を実行するにはもの凄くハードルが高く、そう簡単には人は殺せそうもないと考えざるを得ない。

 だがしかし、実際に殺人事件は世界で後を絶たず、日本国内でも、他の先進諸国に比べて遙かに発生率が低くはあるけれども、年間平均1400件ほどの殺人事件が発生している。一日に三人か四人が殺されているという勘定だ。(もっとも、殺人による死者は自殺者や交通事故による死者に比べれば遙かに少なくはある)現に、年間、千人以上の日本人が殺人を犯しているという現状がある以上、「なぜ人は人を殺し得るのか?」という問題を考えざるを得ない。

 おそらく、人には「人を殺してはいけない」という倫理的な規範と、「人を殺したい」という原初的な欲望とが、エロスとタナトス、リビドーとデストルドーの表裏一体の如く、深層心理の底の底に共存しているのでは無かろうかと思われる。『我が名はレギオン』では、死の中の性(生ではない)、快楽殺人に限らない殺人の中にあるエロティシズムに迫ってみたいと考えるのである。  

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