紅王の宮殿・野中友博公式ブログ

アクセスカウンタ

zoom RSS 劇団の必然と劇団の成立要件−其之弐

<<   作成日時 : 2007/08/19 21:01   >>

ブログ気持玉 0 / トラックバック 1 / コメント 1

 私が「劇団」を名乗る事を拒否し、「劇団」という体制を嫌っていた訳は、演劇を立ち上げる為の座組の中にある、「創作集団」としての権力構造と、劇団という「階層組織」を維持する為の権力構造が、全く相反するベクトルを持っていると考えたからだ。劇団というのは目的集団であると考えるし、その目的は「演劇を立ち上げる」という事その物にある事は間違いないのだが、その演劇の持っているビジョンが明確であるかないかによって、「階層組織」としての劇団内の権力構造は全く別の物になる。

 以前、別のところに書いた事だけども、演劇界における戦後の再出発として組織された、所謂『新劇』の大劇団は、もはや目的集団として機能していない。「演劇を成立させる」という事が目的として存在する事は確かだろうが、それがどういう演劇であるかのビジョンがないからだ。
「Aというスタイルの演劇よりも、Bというスタイルの方が美しい」
と云うような差異が構成員の全員が共有する事によって初めてAという劇団とBという劇団が別々に存在していると云う事の必然と存在理由が生まれる。だけれども、強力なリーダーシップを発揮していた創立世代の他界や退団によって、所謂大劇団は、何処がどう違うのかという明確な境界線を失ってしまったのだ。今や、大劇団は別々の俳優のユニオンとしてしか機能していない。そして、ビジョンを持たない階層組織は、創作の為には邪魔なヒエラルキーを持つ事によってしかその組織を維持する事が出来なくなる。

 私がそこそこの大劇団に所属していたのは、もう20年以上前の事だ。その劇団には建前としてのビジョンはあったのかも知れないが、創作の為の権力構造などは殆ど消滅していた。劇団の俳優達は自分の劇団の演出家を信用しておらず、自分の劇団の中から新しい劇作家が育っていくというような事を期待もしていなかったし、育てる為の手立ても持っていなかった。結果として、組織を維持する為の権力構造には絶対的な年功序列しかあり得ず、新人俳優に先輩のお茶くみをさせ、旅先で下着を洗わせるというような奴隷労働を強いる事を制度化する事で、年功序列のヒエラルキーを叩き込むと云う事しかしていなかった。そうした事が、創作場面では、演出家より偉くて演出家の云う事を聞かない俳優というような関係性を作り出す事になって、創作の為の人間関係には悪影響しか及ぼさないという事になった。

 私にとっては、その体験があまりにも馬鹿馬鹿しかったので、「劇団」という組織を維持すると云う事は、集団創造としての演劇を維持する為には、全く何の役にも立たないばかりか害でしかないという事を考えるようになった。それが今日まで、私が劇団を名乗らなかったし、今後も劇団と名乗らないであろう事の所以である。目的集団としての劇団が健康な組織や集団である為には、どういう演劇をやるかというビジョンが明確であり、その為に、年功序列などとは無縁な場所で芸術的リーダーシップをとるリーダーが必要だ。

画像


 演劇の本質が俳優にあるとすれば、ある演劇のビジョンに向けて、その劇団の所属俳優がそのビジョンを実現する為の方法論を共有すること、日常的にそれを実現する為の訓練をする事……それらを合意した上で、ビジョンに対するブレが生じないように、厳しくそのベクトルを検証するリーダーが必要である。私は「劇団」というのは俳優の物だと思っているし、俳優達が何を共有しているかによって、その劇団が劇団として存立する必然や存在理由が成立すると思っている。だから劇団は俳優の物だけれども、劇団のリーダシップを握るのは演出家である方が良い。そしてその演出家は俳優のトレーナーとしてのスキルを持っているのが望ましい……多分、私にとって必要な劇集団、あえてそれを劇団と呼ぶなら、そのような物でなければならないと思う。

 私が演劇実験室∴紅王国を「劇団化する」という事を意識しはじめたのは、制作上の雑務を分担するとか、経済的な責任を共有するとかそういう事ではなかった。第弐召喚式の『井戸童』の時点で、スローモーションをさせたり、ウォーキングをさせたりという、肉体的な特殊なスキルは、継続的に俳優を訓練しないと得られないと痛感したからだ。野中友博という劇作家の書いた戯曲を具現化するには、俳優に対してスローモーションのスキル、ウォーキングのスキル、大気にたゆたう、浮遊するという身体感覚を身につけて貰わねばならない。また、特殊な文体を音声化するという台詞術、物言う術(すべ)を会得して貰わねばならない。そう考えて、特殊な肉体、特殊な言語に対する訓練を始めた。それらのスキルや身体感覚を共有し、継承するという事を意識する俳優集団が出来、演出家として私がそれを統率できるのならば、それは年功序列によって結びついた動脈硬化を起こした集団ではなく、一つの演劇的な美、演劇のビジョンに対して目的を共有する創作集団となる。それがおそらく、「劇団」という物が健全でいられる唯一の方法であろうと思う。

 実際のところ、この試みはある程度上手くは行っていた。レギュラー陣が客演や新人に対して、諸々の身体表現のトレーニングを伝達するという事は出来るようになって来たし、舞台にいかなる美を求めるかという事について、彼らは私の絶対権力を認めるという合意ができあがっていた。私が思うに、舞台にある種の美やビジョンを追求しようとするなら、そこに合議や民主主義はあり得ない。至上美というのは独裁的な絶対権力によってしか実現し得ない。だから演出家というのはとても罪深い仕事である。劇作家を兼ねる作・演出家となれば尚更だ。個人で美を追究する美術家の一人には、
「貴方は貴方の業に俳優達を巻き添えにするのか?」
とすら云われた事がある。私は、
「それを巻き添えと云ったら俳優達に失礼だし演劇行為その物に対する侮辱だ」
と答えた。確かに個々の俳優一人一人は、「劇」という作品全体にとっては、パーツとして扱われるかも知れない。そうした意味では劇作家の紡いだ言語、戯曲とか台本と云われる物もまたパーツに過ぎない。だから、劇集団のリーダーとしては劇作家は不向きである。劇作家が劇集団のリーダーとなっている場合でも、俳優を統率するのは戯曲や言語ではない。そういう場合、劇作家は演出家として、作品の向かうベクトルをも統率している。作家と演出家が兼任されている場合、結局、演出家としてのスタンスが俳優達を統率しているのだ。

 そしてまた、四半世紀ぐらいの経験で思う事だが、劇集団でも、構成する俳優を初めとする劇集団の構成員は、理念やビジョンではなく、その表現におけるリーダーシップを発揮している個人について行っているという側面が強い。人は理念や思想に付いていく訳ではない。人は人に付いてくる……あまり認めたくない事だが、それは事実だ。だから劇団が解散する時は理念的な対立や表現上の問題ではないのだ。ある人がかつて、
「劇団が解散する時は、芸術的な問題ではない。金がなくなったか喧嘩になったかに決まっている」
と云った。悲しい事だがそれは事実だ。

 演劇実験室∴紅王国が機能不全を起こした事の一つは、見えないところでヒエラルキーが形成され、年功序列を背景に、私の芸術的な統率とは別の密室を作り始める人間が現れた事が大きい。彼は私の見ていないところで共演者に駄目出しをしたり、ああしろこうしろと指図するようになっていたようだ。そしてそれを「はいはい」と聞いてしまった人間が出てきたところで、多くのメンバーが創作集団としての紅王国に希望を持てなくなっていった。次第にそれは私の耳にも入ってくるようになってきて、
「お前、タレントになりたければ野中さんの言う事を聞け。舞台俳優になりたいなら俺の云う事を聞け」
とまで云ったという事を聞き及び、もはや限界だと私も思うようになった。そこに劇団内恋愛という男女関係が絡んでいた事が、また更に話を複雑にした。私自身が演劇実験室∴紅王国に対して、エロスとリビドーの発現というモチベーションを持てなくなっていった。

 今更取り返しは付かないが、彼らが
「僕たち付き合っています」
というような、云わなくても良い事……と云うか、秘密にしておけばいい事を言い出した時に、
「じゃあ別れるか劇団を辞めるか決めて下さい」
と最初に言っておけば良かったのだと思った。普通は劇団内恋愛なんて、劇団の中では秘密にしておく物だ。大体、それが良い結果になったというような話はないし、三十代も半ばになって、そんな事も自覚されていなかったというのは驚きだけれども、どうしてそれを公にしたかについて、
「野中さんに祝福して欲しかった」
などと云っていた事を聞いて(これはかなり後になってから別の人間から聞いたのだけれども)、彼には私の作品の根底を支えているエロスについてさえ分かっていなかったのだと知った。そして彼には演技に対する根底的な誤解があって、ことある毎に私はその事を口にしていたが、それが彼に通じる事は無かった。彼を変える事、育てる事が出来ると思っていた私自身も甘かった。

 これはもう限界だ……と私も思うようになってから、何とか事態を収拾しようと一年ほど踏ん張ってみたが駄目だった。そんな状況で一昨年の暮れ頃、『不死病2006』の制作準備に入る頃に、
「君に辞めて貰うか解散するかしかない」
と私は云った。結局、彼が自分から辞めるとは言わなかったから、『不死病2006』が終わった時点で、何となく自然消滅的に演劇実験室∴紅王国の機能は停止してしまったという事に至った。そして、いついつまでに、諸々の後片付けはしよう、それまでは劇団として継続しようと合意したにも関わらず、当の彼御本人が私に黙って別の仕事を入れたりし始めた。プライベートな事についても、いつまでも綺麗にせずにいた。さすがに私もぶち切れてしまった。同時に、彼には、
「そういう事は人間としても男性としてもいけない事だ」
と忠告したり叱ってくれたりする、彼に親身になってくれる友人が誰もいないのではないかと思った。そういう彼はもの凄く不幸だし、その結果として彼の行動が紅王国をずたずたにしてしまったというのも、みんなにとって不幸な事だった。人としてこういう事をしてはいけないよ、という事は、もう私が言ってあげるとか無いと思った。そういう訳で、彼を呼んで話をした。

 この最後のゴタゴタがなければ、昨年のうちに演劇実験室∴紅王国の現状に対して公式声明は出していたし、再建への動きも、もっと早くから始められていた筈だった。だけれども私はとにかく疲れ切っていたし絶望しきっていた。

 今更のように、「劇団」という物を再建しなければとは思わない。ただ、表現のベクトル、ビジョンを共有できるレギュラー俳優というのは必要だと思っていて、そろそろ腰を上げようと思っている。その為に、スローモーションやウォーキングやパントマイム・スキルのような肉体の型ではなくて、ルコックシステムのような内発的なインプロビゼーションから始めてみようと思っている。私のビジョンにあるエロスを疎外する物は、とことん排除しなければならないし、エレメンツという肉体言語の共有も必要だ。とにかく、劇作家は言葉を扱っていれば済む事だが、演出家や劇団の座長は「人間を取り扱う」という事をしなければならない。大変な事であると同時に罪深い事だ。そして害になる人間を容赦なく切ると云う事もしなければならない。罪深いと同時に、大変なエネルギーを必要とする事だ。でも多分、それをまたやるしかない。私は書くだけでは満足できないのだという事が分かったからだ。その為に、何が駄目でこうなったのかについては自覚的に振り返らねばならなかった。

 必要とされているのは継続だ。継続すればそれはいつの間にか「劇団のような物」になっているだろうと思う。いつまでかかるかは分からないが……

画像

テーマ

関連テーマ 一覧


月別リンク

ブログ気持玉

クリックして気持ちを伝えよう!
ログインしてクリックすれば、自分のブログへのリンクが付きます。
→ログインへ

トラックバック(1件)

タイトル (本文) ブログ名/日時
舞台俳優
舞台俳優での検索結果をマッシュアップ。一語から広がる言葉のポータルサイト。 ...続きを見る
一語で検索
2007/08/20 07:35

トラックバック用URL help


自分のブログにトラックバック記事作成(会員用) help

タイトル
本 文

コメント(1件)

内 容 ニックネーム/日時
難しいっす・・・
俺は演劇とか全然分かんないですが、もともとバンドマンだったんですね。バンドやってて気づいた事は、俺団体作業苦手だって事でした。

5・6人のバンドでさえイザコザや争いが絶えませんでした。
おんなじ音楽やってても、自分の作った曲が他人に弄られるのが嫌でした。歌詞描いて自分で歌っても、自分の声じゃないなぁって思うし、録音した曲はバンドの人間内での妥協点の音作りに終始してた感はぬぐえませんでした。
でも絵って独りで何でも出来る。
失敗も成功も独り占め♪って感じで俺には合ってるのかなぁと思います。

演劇ってやっぱ団体だしまとめるのって大変そうですね。

全然関係ないんですが、最近自主製作の映画に出演しませんか?ってメッセが来ました。
新手の詐欺か?とか思いながらちょっと関心が有る自分を発見しました。
でも謎っす?????
T・HRN
2007/08/20 01:04

コメントする help

ニックネーム
本 文
劇団の必然と劇団の成立要件−其之弐 紅王の宮殿・野中友博公式ブログ/BIGLOBEウェブリブログ
文字サイズ:       閉じる